2014年1月2日~1月9日 ポルトガル屋外広告物視察
Ⅰ. 屋外広告物ギャラリ-
Ⅱ. 旅行記(ポルトガルの歴史、地理、風土)

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Ⅰ.屋外広告物ギャラリ-
 ①自立型
   
        【ブルテイン型。 リスボン郊外】
   
        【自立ポ-ル列  ポルト】

② 壁面広告
   
             【 大型壁面広告  リスボン 】
   
             【 大型壁面広告  リスボン 】

 ③バス停広告(バス・シェルタ-)
   
                【 ポルトにて 】
   
    【 バスシェルタ-工事中。JC DECAUX社、カルダス・ラ・イリ-ニャにて。】

④テレフォン・キヨスク
      
           【 右がテレフォン・キオスク。 コインブラで。】

⑤ STREET FANICHURE
  
             【 トマ-ルにて 】

  
              【 リスボン にて 】
⑥ファサ-ド
  
               【 ポルト  ワイン工場ファサ-ド 】
  
       【 店頭突き出し サンチャゴ・デ・コンポステ-ラにて   】
  
           【 ホテル突き出し電飾  ナザレにて 】
  
               【 カメラ店ファサ-ド 】
⑦夜間上空ネオンチュ-ブ
  
             【 ポルト 】
  
            【 コインブラにて、昼間の状態 】

  
             【 ナザレにて、昼間の状態】





.旅行記(ポルトガルの歴史、地理、風土)
第1日目 2014年1月2日(木)
 今回もT君夫妻と我々夫妻の同行である。

 11:40,TOKYO-NARITAをブリテイッシュ・エアウェイで飛び立つ。
 
12時間飛んで、ロンドン・ヒ-スロ-空港、現地14:43着陸。 Terminal5,Gate3。
 20:10,Terminal3、Gate4から20:10,ポルトガルの首都リスボンへむけ飛び立つ。
 22:25 リスボン着陸。 イギリスと時差はない。イギリスとポルトガルの政治的関係は16世紀いらい、安定している。(間にスペインという国があるためである。
 23:13,送迎バスで空港をたち、23:25,宿泊のHolidayInn Express Lisbon Airport着。

第2日め 2014年1月3日(金)
 8:25,チャ-タ-バスでホテル発。今日の行程は、145km先のトマ-ル~そこから245km先のポルトまでである。
 
8:28,すぐ高速A1(NORTE)にのる。 天候は雨模様である。ポルトガルは灼熱の太陽と海、のイメ-ジがあるが、それは夏だけ。冬は半分以上雨とのこと。この旅行は観光のオフ・シ-ズンの企画であり、そのこと、すっかり知らずに来てしまった。 結果論だが、晴れの日、ゼロであった。
 9:05,Carxoというところを通過して、9:21~9:45,サ-ビスエリアで休憩。 CD2枚買う。「El Ritmo Caliente Mixed by Dj Maddox」と、「ANA MOUDA DESFADO」。計24.65ユ-ロ。ハチミツも買う。
 9:49,A23号線に分岐し、10:13,トマ-ルに入る。
10:15~11:42、キリスト修道院。Convento de Cristo。
 トマ-ルの人口は16,000人。
 キリスト修道院はナバオン川の流れる市街地をみおろす丘の上にある。私の目的地の一つである。
 なんとなれば、起源がテンプル騎士団だからである。なぜ、テンプル騎士団か? それは、レコンキスタがはじまった12世紀中盤、テンプル騎士団がリスボン北東部をイスラム勢力から奪回した功績により、国王アルフォンソ1世からこの地を与えられ、城塞と聖堂を築いたからである。
 テンプル騎士団は1312年、禁止された。それはフランスでのことだ。ポルトガルでは、あやしくも「キリスト騎士団」なるものにひきつがれ、王室から代々の団長をむかえた。エンリケ航海王子もその1人。 思うに、テンプル騎士団が弾圧されたあと、それはポルトガルでは名をかえて王室公認で生き残り、その膨大な資産がポルトガルが世界に先駆け海洋へ進出できた「資本の原始的蓄積」となったのではないだろうか。
          
                【 トマ-ル、 キリスト修道院 】
 そびえる建物は、城塞であり、聖堂であり、いまは修道院。堅固である。しのつく雨のなか、空は曇天。そのせいもあろうか、なにもかも、陰気な印象であった。
 1. 入り口
 2. 墓の回廊 修道士達の墓所。 
 3. 沐浴の回廊(Washing Cloister,  Claustro da Lavagem ) かっては、貯水池があり、沐浴がおこなわれたことに由来する。壁面は青のアズレ-ジョ。
 4. エンリケ航海王子の住居宮殿跡。 石柱やレンガの遺跡。沐浴の回廊から東を見下ろす場所にある。石柱やレンガの遺跡。エンリケ王子は1420年から40年間、なんと、ここで暮らしたのであった。
 5. New Scristy(聖具保管室)
 6. ロトンド(Rotanda、円堂、ポルトガル語Charola)。 ここが本修道院の中心である。1160年、テンプル騎士団(the Grand Master of Knight Templars)によって着工された16角形の円筒形建築物である。中央に、エルサレムの聖墳墓教会の祭壇に倣った8角形の祭壇(altar)があり、騎士たちは乗馬しこの祭壇をまわりながら、ミサに参加したとのこと。 祭壇はこれ以外の建物は、これ以後、増築された建物である。
 7. ロトンドの西側に隣接して、Igrejaなる聖堂があり、「キリスト騎士団聖堂」といわれる。 2階は聖歌隊席である。はじめからあったのではなく、16世紀はじめマヌエル1世の命令で建立。
 8. この聖堂の外の西側壁面あるのが、「大窓」である。これは「サンタバルバラの回廊」から見る。冷たい雨のなか、色彩はにぶり、海底か、うらさびれた港湾の岸壁かに見える。船のもやいロ-プ、鎖、サンゴ、が写実的であるが石に刻まれる。しかし、それらは確かに大西洋の大うなばら(海原)にのりだしたポルトガル民族の歴史的必然の息吹が感じられる。 晴れた日に来て鑑賞してみたい。この窓は、マヌエル様式の最大傑作といわれる。
 9. 寝室の廊下。 十字形の廊下に40の宿坊がある。 その入り口から、主回廊を下に見下ろす。 1581年ポルトガルを併合したスペイン王フェリペⅡは、ポルトガル王フェリペⅠ、としてここで戴冠した歴史上の場所である。
 10. Refectory  食堂。 (修道院、大学の食堂は、refectory。)
 11. 台所
 12. ミシャの回廊 Claustro da Micha 。 ここで貧しい人々にパンが配られた。西側の部屋にかまどがある。
 13. 聖バルバラの回廊 Claustro da Santa Barbara。ここから「大窓」がよく見える。見上げる。この回廊は女子修道院の一部だったようだ。1843年、この2階部分がとりはずされたと、壁に説明文があった。上記8.の「サンタバルバラの回廊」とは、今いるところの階上、ということになる。
 11:42,見学はおわり戸外へ出た。テンプル騎士団の城塞、というより、マヌエル様式の装飾に圧倒されたと言ってよい。
テンプル騎士像を買う。なんのことはない、十字軍兵士像(Crusader)である。19.9ユ-ロ。 
 ここで、誰かからアルメイダ病院の名がでた。戦国時代、日本にきた人物(ルイス・デ・アルメイダ))で、大分(豊後)に日本で初の西洋医学を導入した病院(医療施設)を作ったことで知られる。かれはリスボン生まれ。

 12:10~13:15,昼食。 「RESTAURANTE NABAO」、その名のとうりナバオン川の橋をわたったところにある。バカリヤウ(Bacalhau)を食べる。チャ-ハン風である。ワインはVinho Verde(ヴィ-ニョ・ヴェルデ)という白ワインだが発泡性である。ハ-フボトルで5ユ-ロ。
 ナバオン川は狭いが水量多く、流れは早かった。昨年、フランスのルルドでみた川(    )を想起した。落ちたら簡単に流されるだろう。

 13:20,トマ-ルを出発する。高速A13号線を北へポルトへ245Km。手元の地図にないので、新しいらしい。ガイドさんによると、高速道路の建設に日本の援助資金が投入されているとのこと。
 13:47,Aluvaiazere-Arega、通過。 右、山の上に風力発電塔。 ユ-カリの木。 ユ-カリはポルトガル原産ではない。
 15:00~15、Anthurというサ-ビスエリアで休憩。。
 そのあと、30分くらいで、ドウロ川に架かるドン・ルイス橋をわたり、15:42,ポルト、高速をおりる
 ドウロ川に沿って右岸をくだる。15:45,エッフェルが作った(インファンテ)橋をくぐる。続いてドン・ルイス橋もくぐる。これはエッフェルの弟子の設計。
 15:55~16:05、サンフランシスコ教会。と言っても入場しない。「中には大したもの、無いですよ。」とガイドさん。なら、なんでここで降ろされるの?
まあ、目のさきは川(ド-ロ川)だから景観を楽しむため? それほどの景観ではないと思うが、、、、。
 ドウロ川をわたって対岸の(ヴィラ・ノヴァ・ガイア)地区へ来た。
 16:18~16:33,川っぺりの「SANDEMAN」ワイン工場見学。いわれは創立者ジョ-ジ・サンデマン(SCOTLAND), 創立1790年。「ポ-トワイン」とはここポルト産のワインのこと。かなり甘い。川にはかってワインを運んだ船(ヴアルコス・ラべロス)がもやっている。
 17:25~17:35,サン・ベント駅。 駅の中をグルッと見る。壁面の青のアズレ-ジョをゆっくり見る間もなく、出発。(この旅行、ちょっとお粗末!)
 18:00頃、宿泊のホテル・ベ-タ・ポルトに着いたが、夕食なしの各自、自由行動であったので、高須夫妻とTAXIをひろってまず、先ほどのサンフランシスコ教会へ向かう。「なかに大したもの、ないですよ。」(添乗員)とはあまりではないか!I 行った場所には敬意を払いたい。

 第一、ポルトのこの地域は北は市庁舎から、南はドウロ川対岸のヴィア・ノヴァ・デ・ガイアまで世界遺産・歴史地区である。
 1.18:55, サンフランシスコ教会(Igreja Sao Francisco)。 丘の上にある。階段をあがって正面でなく、つきあたりの右なので、日本的にいえばたしかに何かの縁。入場はできず。しかし、1383~1410年の創建。外はゴシックだが、内部にまばゆいバロックがかくれているとのこと。100kgの金箔の貼られた8つの祭壇。金泥細工(タ-リャ・ドウラ-ダ)。入場はできなかったが、敬意は払えた。
 ここからは歩きである。(『Lonley Planet Portugal』p.360)
 2. ボルサ宮(Palacio da Bolsa)。1842~1910年築。かっての証券取引所。しまっていて入れず。ネオクラシカル建物。 (同上 P.360 )
 3.てもちのガイドブックには載っていない「Igreja de Nasa da Vitoria」教会。 入場できた。入場者はいなかったが、温かみのある小教会。
 4. クレㇼゴス教会(Igreja dos Clerigos)  暗闇の中、到着。入場出来ず。76mの高さという塔がそびえている。ポルトいちの高さで昼間は目印になるという。
 5. レロ・エ・イルマオン書店( Libaria Lello Irmao )。 店内が凝っており「世界一美しい書店」(特に階段付近)とか。でも時間外で入場できず、ガラス越しに覗くだけ。
 6. リベルダ-デ広場から北に遠く市庁舎をのぞんでから、東の方、サンベント駅へあるく。道中、道路上空を横断するネオンチュ-ヴ群ががきれいである。
 7. サン・ベント駅(Estacao de San Bento)。 先ほどは5分弱の滞在だったので、今度はすこしじっくりアズレ-ジョ(青色の装飾用タイル)を読みとかんとする。戦争の絵が目立つ。「ジョアン1世のポルト入城」、「ジョアン1世のセウタ攻略、、、、、。 だが、ガイドが必要だ。ここからは、
ネットで得た情報である。(www.happytraveler.jp/2017/12/estacao-de-sao-bento....)
  正面入り口を入ってまず、左奥上段は、「アルコス・デ・ヴァルデヴェスの激戦」、その下は「家族をレオン王に紹介するエガス・モニス」。
  右奥上段は、「ジョアン1世がフィリッパ・デ・レンカストレとの結婚(1387年2月2日)のためにポルトに入城の図」、その下は「セウタの征服図」(1415年8月21日)。中央にりりしく立つは、ジョアン1世か? セウタ攻略もエンリケ航海王子の立案によるものとおもうが、王子自身は戦場に立つことは多くなかったらしい。また船酔いに弱く、海を渡るのはセウタに行った程度とか読んだことがある。セウタはその後1580年、スペイン王フィリペ2世によるポルトガル併合のときから21世紀今日まで、スペイン領である。かの1936年、フランコ将軍の反乱は、そこセウタから始まった。
  正面はホ-ムへの面で、ホ-ムへのくぐりア-チが5ッある。その中央のくぐりア-チがア-チとして最大で、上部に大時計がある。左から1ばんめのア-チ上は、「聖女レメデイオスの祭り」、中央ア-チの右は「田園風景」(上下とも)、右側ア-チの上部はポルトガル北部の町ギマラインス(Guimaraes)で行われる祭り「グアルテリアナス祭り」図。
 飽かず眺めていたい気分だった。
    
           【 サンベント駅ロビ-、右奥面 】
 これらのアズレ-ジョは1930年、ジョルジュ・コラ-コが製作。サン・ベント駅そのものは修道院跡地にたてられたのだ。

 8. ドウロ川っぺりのプロムナ-ドにおりて、ガイドブックでお目当してきた「シェ・ラパン」(Chez Lapin)で夕食とする。入る前に、ここにもエンリケ航海王子の家といわれる建物を望む。シェ・ラパンはくつろげてよかった! シェ・ラパンというだけあってウサギ料理が売りのようだったが、ウサギには手が出ず。(ウサギといえば、こどもの頃、保育園の100mくらい脇にウサギのと殺(と畜)場があってその声が耳にあり、敬遠している。そういえば、昨年スペイン・バスクのパンプロ-ナではラパンン料理を昼食したのだったが、、、、。) 食事内容は次のとうり。
  Vila Regia 7.50
  Salad do Mar 11.95
  Salad CHEZ  LAPIN  6050
  Sardinhas 12.00
  Linguado 16.00
  Lomo Assado 14.00
  Carne Vinha d alhos 12.50
     Total   80.45EUR    22:25,会計すまし、店を出る。

ドウロ川上流へ200mくらい歩いた。ドン・ルイス橋にあがるケ-ブルカ-に乗ろうとしたら、営業時間外でストップしている。やむを得ず、その場でTAXIを拾って、Belver Beta Port Hotelに帰ってきた。

第3日目 2014年1月4日(土)
 朝3:00、稲妻の光と激しい雹(ひょう)の叩きつける音で目がさめる。1月のま冬の、夜中に雷鳴と稲妻。そしてひょうが降るなどとは信じられなかった。
さすがに大西洋岸!
 今日は、スペインのサンチャゴ・デ・コンポステ-ラ往復である。 昨年、フランス・バスクのサンジャン・ピエ・ド・ポ-で「フランスの道」を500mだけ歩いた。だが、サンチャゴ・デ・コンポステ-ラに「ポルトガルの道」で行く(来る)とは思いもしていなかった。果たして、どんなところだろうか。

8:20,ホテル発。雨はげしい。窓の外、展望わるい。
9:23,スペイン国境通過。時計、1時間早める。 スペイン高速A7,E55号線となる。
9:47,Vigo湾を見下ろす。このへんで住んでみてもいいかなと思った。このあたり、シェス諸島といわれ、「リアス式海岸線」の発祥元である。(北欧ではないようだ。) タコの養殖のいかだが続く。
10:00~10:20,ヴィ-ゴ湾奥のSAで休憩。たまに雲がきれて日が刺す。
11:08,Sanchago,Norteのインタ-をおりる
11:14~11:30,「歓びの丘」Monte do Gonzo、に到着。 
    
         【 モンテ・ド・ゴンゾ 】 巡礼者に対して罪悪感を感じる。


11:45,バス停到着。
11:58,大聖堂まえのオブラドイロ広場にでる。左手に大聖堂が突然あらわれ、感激が間に合わない。しかし写真通り、くすんでいる。入場の前に、大聖堂の前をよこぎり右手奥の一角でまず、昼食だった。頼んだワインは、リオハ産の赤(テイント)1ボトル14ユ-ロ。エスプレッソ2(3.0ユ-ロ×2)、タコ12ユ-ロ。
食後、大聖堂裏手のキンタ-ナ広場に行く。
14:00,いよいよ、サンチャゴ・デ・コンポステ-ラ大聖堂に入場する。正面からでなく、「銀細工の門」(聖堂右側面、交差廊の右端)より入る。すぐ、博物館に誘導され面くらう。 まず、祭壇へ、ではないのか?  祭壇正面をじっくり見る。 祭壇やサンチャゴ像は金ピカである。サンチャゴは目をむいている。祭壇の中に2回入り、サンチャゴに手をあてる。 祭壇から一番離れても見る。そこは「栄光の門」のところだ。柱に彫られているヤコブ像を見上げ、その下の、巡礼者がさわってきたくぼみも見る。オブラロイドの正面入り口に行ってもみる。正面入り口へ中から行ってみるとは不思議な気持ちだ。外に出ると日本人の若い男の巡礼者と会った。ひょうひょうとしていて、好感が持てた。15:14,この人と集団で写真を撮ってもらう。
     
            【 サンチャゴ・デ・コンポステ-ラ 】

正面から大聖堂を見上げる。くすんだロマネスクだが、大きい。私は巡礼者ではないが、ここ10年くらいはここにあこがれていたから、それなりの感慨はあった。
15:15,大聖堂広場を発つ。

15:30,バス発。15:40,高速に乗る。
16:19、Pontevedra通過、16:28、Vigo湾に帰ってくる。雨となる。
16:30~55、サ-ビスエリアで休憩。ガリシア州の地図を買う。9.60ユ-ロ。
18:25,ポルトのホテルに帰着。19:30~グル-プで食事。

第4日目 2014年1月5日(日) ポルト→コインブラ→ファテイマ→ナザレ (268km)
 8:35,ポルトのホテル発。ドン・ルイス1世橋。
9:45~10:00,休憩。高須君が添乗員にリスボン2日目の自由行動を交渉して、承認をえる。
道中、カモンエス、サラザ-ル、ロボトミ-のノ―ベル賞受賞者、

 約116km走り高速をおり、モンデゴ川(源流はエステレマド-ラ山脈)左岸を走っていくと、川の向こうの右岸の山の上に、白壁のコインブラ大学(旧大学)が見えてくる。 川は50m幅もあろうか、水量も豊富である。橋(サンタ・クララ橋)を渡って左折、コインブラ鉄道駅を右折、山を右手にしながら右回りに高度をあげ、山上の大学構内に到着。10:35だった。
Coimbraは人口10万人、ポルトガル第3の都市。リスボンが政治都市、ポルトが商業都市とすれば、ここは文化都市で、コインブラ大学は1290年リスボンに創立され、1537年コインブラに落ち着く。欧州でもパリ、ボロ-ニャ、サラマンカにならぶ古さ。大学は14世紀以来の山の手のアルタ地区と、16世紀以来の下町のソフィア地区に分かれている。今、いるところは山の手の旧大学である。
 鉄の扉をくぐると、そこは中庭で、右手から校舎、時計塔、校舎、図書館がつながり、左手中庭中央に、大学の二人の創設者の立像があり、左手は切れ、コインブラの街並みを見下ろしている。黒マントの女子大学生もいる。
    
           【 コインブラ大学、 ジョアニア図書館 】
 1724年築のジョアニア図書館(Biblioteca Joania)に入る。蔵書、30万冊。壁面は金泥細工(タ-リャ・ドウラ-ダ)されている。昔、本は手工業的につくられていたが、一挙に増えたのは、グ-テンベルグによる活版印刷技術以来である。
 大学を辞し、徒歩で近道で街へ降りる。 右手にファドの店がありCDを求め、店主にサインしていただく。かれが歌っているCDを聴いた。コインブラ・FADは歌手はすべて男性である。
     
              【 コインブラ・FAD  店舗前の置き看板 】
  1162年築のロマネスク様式の旧カテドラル(Se V ELHA)の脇をとうるが石造りで砦のようだ。そこから下り階段がのび、城壁のひとつのいりぐちだった門(アルメデイ-ナ門)をくぐると平地である。300Mくらい行くと、来た時のサンタクララ橋のまえの広場(ポルタジェン広場)で、ここでバスにのり、12:00,コインブラを去る。

 (    )号線をたどり、12:55,ファテイマ(Fatima)に入る。カトリックの聖地で、目的はその教会見学である。
その前に、13:22~14:10、ドミニコ会派のレストランで昼食。宗教心で経営されているので、ピリっとしていいものである。豆のス-プ、ビ-フ、ケ-キ。
赤ワイン(vinho Tinto)は、CasadasIrnas Doninicana だった。
 14:20 Basilica.。 扇形の大広場。膝で歩く信者もいる。 扇形のしもの位置に聖三位一体教会がありはいって見る。
ファテイマは、1917年5月、3人の子供(10才の兄、7才の妹、いとこの10才の女の子)の前に聖母マリアが降臨した「聖地」である。
 15:33,ファテイマ発。

 高速(  )号線にのり、15:43「ナザレまで43km」の標識がある。 車中で、1960年のフランス映画「過去を持つ愛情」でうたわれたアマリア・ロドリゲスのファド「暗いはしけ」がかかる。舞台はこの町のケ-ブルカ-のシ-ンだそうだ。
 16:25,ナザレ(Nazare)の高台(Sitio地区)に到着。夕日の太西洋、ナザレの海岸を見下ろす。ナザレは、長い砂浜の漁村の町。そのいわれは、8世紀、西ゴ-ト王(ロドリゴ)がここへ来た時、供の僧侶(ロマノ)がたずさえていたマリア像が、はるかパレスチナのナザレ製だったことに由来する。もう一有名なのは、怒涛の大西洋の荒波が渦巻くここの岬である( サンミゲル要塞の岬)。
 ここの高台で30分間堪能し、16:55,高台を去り、17:25,ホテル・マ-レに到着。ひんのよい広場、多分ここがナザレの中心の一つかとも思われる広場(ソウザ・オリベイラ広場)の奥に位置する5階建て。海岸からも目印になるようなホテル。1階にシ-フ-ド店があると日本のguidebookにかかれていたが、閉店していたので、夕食はホテルで紹介してもらった「A LANTERNA」でカタプラ-ナを堪能した。 ホテルからあがった2分くらいの左手。よい雰囲気。
 21時から高須君と暗闇の中を散歩する。海岸通りから交通量のない漁村部分へはいると真っ暗。遠くにぽつんとみえる明かりを目指していくと、地元の漁村の男たち7~8名がもりあがっている居酒屋だった。カリダ-デ通り(Rua da Caridade)の「XALAVAR」という店。セルベッチャをおごってくれたので、こちらも3本お返ししたりして盛り上がった。
     
              【 ナザレの居酒屋のカニ 】
     
      【 地元の漁師たちと酒をくみかわした居酒屋。記念写真を撮り損ねた。】
  22:23、辞去する。

第5日 2014年1月6日(月) ナザレ→カルダス・ダ・ライ-ニャ→オビドス→ロカ岬→リスボン (227Km)
朝、起きて、すぐケ-ブルカ-乗り場に行ってみた。あの、アマリア・ロドリゲスの「暗いはしけ」がうたわれた場所だ。近くに洗濯場があり、そこもアズレ-ジョがいっぱいだった。砂浜にも出てみる。mimiさんが足を濡らしてしまった。その先のサンミゲルの岬の怒涛に目をみはった。ただでさえ怒涛の岬だが、海底がえぐられているようで、なまじの波濤ではない! ホテルにも学術分が掲示されていた。
   
          【 ナザレの砂浜。右奥にサンミゲル岬と波濤 】

 8:50,ナザレのホテルを発つ。天気、曇り。
 約30km走り、9:21,カルダス・ダ・ライ-ニャ(Caldas da Rainha)着。人口約2万人の、湯治町であり、ボルダロ・ピニェイロの陶器町であり、交通の要所である。町の名前がそもそも「王妃レオノ-ル(        )の湯治場」である。
9:27,王妃レオノ-ル像の広場で下車。レプブリカ広場の市場へ歩く。パブリカ大一個(赤)買ってみる。 pinentos 1.60ユ-ロ。 喫茶店、陶器店多い。フランスの世界的屋外広告代理店( JC Decaux 社 )の作業車がバス停広告の入れ替え作業をやっているところに出くわした。
 10:30,カルダス・ダ・ライ-ニャを去る。

 10:42、南へ約7km走って、オビドス( Obidos)着。 雨である。
 10:55、こうもり傘さして城門をはいる。天気わるく方向がわからないが、西門とのことだった。
 メイン通りという3~4m幅の石畳のデイレイタ通りをすすむと突き当りは城壁になり、急な階段をのぼると、posadaの玄関。城跡をホテルにしている。
かいだんを下って、雨の中、サンタマリア教会にはいる。なかはくすんではいなく、壁は青のアズレ-ジョである。市庁舎まえ~サンペドロ教会へ。くすんだ外観のサンペドロ教会内にはいる。内部はくすんだ印象はなく、祭壇はバロック風である。アズレ-ジョはない。 昼食レストラン「Alcaide」はブタとアサリの炒め物、Vinho Verde。食後、サクランボを漬け込んだ果実酒(ジンジャ、 ジンジ-ニャ、Ginginha)をチョコカップでふるまっている店頭があって試飲する。 本屋もあり覗く。13:45,オビドスを去る。3時間もオビドスに居た。この町は、人口800人、起源はロ-マ帝国時代に海からの外敵にたいする砦にさかのぼるとのこと。1284~1834年までの長きにわたり、ポルトガル王妃直轄地であった。 私としては、結果論だが、ここに寄るなら、アルコバサ修道院のほうに寄ってほしかったと思う。

 風力発電の羽が多く見える。15:05,ロカ岬(CABO DA ROCA)の灯台がまじかにせまってきた。15:08下車。強風、見下ろす( 140 )m下に打ち寄せる荒波、白濁。空は曇天。うねる沖合。ヨ-ロッパ大陸の西端。ポルトガルの詩人、カモンイス 「ここに地、果てる。  」 北緯38度47分、西経9度30分。 ロカ岬に来たという証明書は一枚11ユ-ロ。インド人夫妻と息子一人の家族にカメラのボタンを押してあげた。観光バスの車体に、応対できる言語が示されている、英語、ポルトガル語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、スペイン語、オランダ語、日本語、ポ-ランド語、ロシア語(pyccknn ?)、中国語、ブラジル・ポルトガル語(?)。  15:52,ロカ岬を去る。

 16:30~16:45,カスカイスの「地獄の口」。 30mの高さの断崖に口をあけた洞穴に、大西洋の大波がうちよせ、洞穴内でしぶきをあげるさまを観光資源にしている。
 16:50~17:05,カスカイスの港で15分休憩。漁船もみえれば、リゾ-ト風のモ-タ-ボ-トもみえる。バスのとまった横にシタデルがある。行って見たら、「ポサ-ダ・カスカイス」だった。

 雨と暗闇の中、17:45、リスボンの「エドアルド7世公園」の頂上で下車。この公園は、1902年、イギリスのエドアルド7世のリスボン訪問を記念して、斜面に作られたフランス公園で、昼間晴れて居ればテ-ジョ川まで望めるとのこと。この公園の斜面を下れば、ロンバル侯爵広場を経て、リスボン下町の貫通道路(リベルダ-デ通り、Avenida da Liberdade)となり、その先はテ-ジョ河の河岸たるコメルシオ広場にいたる。だが、夜であるし、雨なので、み通せない。ボンバル侯爵こそ、1755年リスボン大地震ごの再建計画の大政治家であった。 そんな感慨にふけりながら、夕食のレストランに入った。
  宿泊のホテル、VIP EXECTIVE  ZURIQUE(ズ-リケ)着。
このあと、自由行動だったので、ポルトガル式闘牛場の外観を見に行く。雨で道路はぬれており、靴がだいぶぬれた。 闘牛場の外観も暗く、地下ショッピングセンタ-でカッタ-シャツを買う。
    
             【 リスボンの闘牛場 外観 】

第6日目  2014年1月7日(火)
  今日はリスボン滞在である。11時ころまでグル-プ一行に同行し、そのあとはグル-プとは別行動の了解をとってある。
9:10,ホテル発。グルベンキアン美術館のカド → モンサント森林公園の中 → Descobertas通りを経て、リスボン市西部のベレン地区に行く。
9:50、 テ-ジョ川沿いの「ベレンの塔(Torre de Belem)」 テ-ジョ河畔、しのつく雨、見通しわるく、風もあり、興味半減。 9:57発。

10:10 「ベレムの塔」から北に400mの「発見のmonumen」(Padrao dos Descobrimentos)
  
ここもしの付く雨。~ 10:22。
 「発見のMonument」前の地面にタイルの世界地図があり、日本到達年が1541年と記されている。 その関連をみると、アゾレス諸島(ASIORES)到達1427年、以下同様にヴェルデ岬(CAPO DE VERDE)1444年、ギニア(GUINE)1460年 、コンゴ(CONGO)1483年、(ケ-プタウン)(CABO DA BOA ESPERANNCA)1488年、マダガスカル島(MADAGASCAR)1500年、 ホルムズ海峡(ORMUZ)1507,  インドのゴア(GOA)+カルカッタ(CARECATE)1498年、セイロン(CEILAO)1505年、マラッカ海峡(MALAKA1)1509年、広東(R.DE CANNTAO)+マカオ(MACAU)1514年、 インドネシアのモルッカ諸島(MOLUCAS)1512年、パラウ(PALAU)1514年、 (日本)1541年。 私の知っている種子島への鉄砲伝来は1543年。
 以下、主なポルトガル・日本歴史。1549年、フランシスコ・ザビエル来日。天正遣欧少年使節団(1582~1590)、1587年豊臣秀吉による伴天連追放令。1614年徳川家康によるキリスト教禁止令。1613~1620年慶弔遣欧使節団。1636年第四次鎖国令(ポルトガル人のマカオへの追放)

10:40 「発見のモニュメント」から内陸へ500mくらい歩き、ジェロニモス修道院 (Mosteiro des Jeronimos)しのつく雨。
 ここは、1502年マヌエル1世が着工開始。海外からもたらされた富をつぎこみ、完成は(  )年。まさに大航海時代の栄華の記念碑である。
 西門から入る。サンタ・マリア教会。左右に大きな棺があり、左がヴァスコ・ダ・ガマの、右がルイス・デ・カモンイス(    )の棺である。これで分かるように、この建物は印度航路発見者のヴァスコ・ダ・ガマと、彼の探検を叙事詩にうたいあげたポルトガル史上最大の詩人ルイ-ス・ヴァス・ド・カモンイス(をはじめとする航海者、探検者たち)にささげられている。柱は天井にむかってよじれる装飾。波、 奥の祭壇はバロック風。回廊。食堂広間。
 ジェロニモスについて、はっきりさせておく。ジェロニモスはポルトガル語だが、英語ではHieronymites、日本語表記でヒエロニムス。
かれは初期キリスト教の教父の一人。聖書をラテン語で書いた。四大ラテン教父の一人、342~420年。ダルマチア(アドリア海沿岸、現在クロアチア)生まれ。この年代周辺でのおもな年号をあげてみると、
   西暦 30年. キリスト刑死。  64年ペテロ、パウロ、殉教。  100年頃、既に「教会規定」流布。  120年前後、ポリュカス(スミルナ司教)殉教。
   135年頃、エルサレムでヨダヤ人反乱・鎮圧・追放(デイアスポ-ラはじまる)。 2世紀中盤、殉教者ユステイノス。 254年、オリゲネス殉教(アレクサンドリア、神学者)。     276年、マニ教マニ、刑死。   306年、ロ-マ皇帝コンスタンチン1世(~337)。 313年ミラノ勅令(キリスト教、ロ-マ帝国で公認される)。  325年、ニケ-ヤ   宗教会議(アタナシウス派の三位一体説を正統とする)。 342~420,聖ヒエロニムス。 354~430、聖アウグステイネス。  380年、ロ-マ、サンピエトロ寺院完成。
  392年、キリスト教、ロ-マ帝国の国教となる。  395年、ロ-マ帝国、東西に分裂(西ロ-マ帝国~476年滅ぶ)。431年、エフェソス宗教会議(キリスト人間単性説のアリウス派  を異端とする)。 451年、カルマゲドン宗教会議(キリスト神性一性論の排斥)。 480頃~543年、聖ベネデイクト。 529年、ベネデイクト、モンテカシノ修道印作る。

 さて、10:58,シントラ・ペ-ナ宮殿観光行の一行とわかれ、高須夫妻と我々夫妻は、自由行動にうつる。
まず、もうちょっとジェロ二モスの館内を見てから、
 1.12:15~12:50、海洋博物館(Museu da Marinha)
     
           【 海洋博物館、 エンリケ航海王の像 】
    しかし彼は海洋へでたのではなかった。もっぱら、全体の指導者だった。(出たのは若い頃の、セウタ攻略の時だけ。
 2.13:05~13:45,「べレムの塔」再入場。 言い尽くされているので、書けない。
 3.Taxiで213:57~15:45,バイロアルト地区てまえの、国立古美術館(Museu Nacional de Arte Antiga)。ここでの目的は、桃山時代の二双の「南蛮屏風」であった。色鮮やかに、退色を感じさせない。
     
                     【 南蛮屏風 】
 4.またtaxiで、13:31~13:45,バイシャ地区の西側の高台(バイロ・アルト)の、サンロケ教会(Igreja & Museu Sao Roue)に行く。。日本の天正遣欧少年使節団が1584年、ロ-マへの途上一か月ほど滞在したイエズス会の教会だが、それらしき説明がみあたらず、残念だった。。
 5.ケ-ブルカ-(グロリア線)で、あっという間に到着したが、レスタウラド-レス広場(Praca dos Restauradores)におりる。
       

  広場(15:55~16:05)中央に高さ30mのオベリスクがたつ。これは1640年、スペインからの独立を戦った「復興者たち」をたたえる塔である。 スペインのポルトガル支配、1580~1640年の60年間。
 6.再三、taxi利用で16:15~17:05,サンジョルジエ城(Castelo de Sao Jorge)に昇る。
  そこは公園になっていた。西側がひらけ、バイシャ地区の谷、その向こうの高台(バイロ・アルト)、左側はテ-ジョ河とその向こうに展望がきく。
     
      【 このテ-ジョ川から、大海へ乗り出していったのだ。 日本にも! 】
  テ-ジョ川の上流はスペインである。 スペインでの名称はタホ川で、トレッドをながれ下る。但しこの川は山間部を流れるので、河川交通が難しかった。
イベリア半島でのこのハンデイキャップはフランス、フランドル、ドイツ、中央ヨ-ロッパ方面との産業の競争力でハンデを負うことになった。
 公園の奥に堅牢な城壁がのこる。ロ-マ時代の要塞にはじまり、西ゴ-ト、イスラム、ポルトガル王朝の所在地である。(航海王エンリケはここに住まず、初日に訪れたトマ-ルのキリスト修道院に住んだ。)スペイン、マドリッドのような王宮は残っていないのだ。
    
 7.サンジョルジュ城から歩いてくだる。古い住居が多い。1755年の大地震にたいし、このあたりは地盤が強固で被害はすくなかったためだという。途中、カテドラルを見(17:25)、市電28番線にのり、コンセイサオン通りで下車。そこは、コメルシオ広場北の「勝利のア-チ」へのまがりカドであった。
 8.17:47~18:05,コメルシオ広場。テ-ジョ河畔の階段を上り下りし、かつて世界史をリ-ドした広場の賑わい、喧噪を想像する。もはや日はくれて、あたりは暗い。官庁が広場を囲んでいる。
 9. バイシャ地区(Baixa)へ歩く。途中、コ-ヒ-とビ-ルの休憩。
 10.19:10、サンタ・ジュスタのエレベ-タ-をのぼる。カルモ教会の外壁を眺める。( 1755 )年リスボン大地震で倒壊、そのままの状態で保存されている。かってモロッコへ旅行した時(2011年1月)、現地ガイドのムハさんが、「地震」、「地震」とよく言っていたのが最初はどういう意味かわからなかったが、それはこの(1755年)のリスボン地震によるモロッコでの被災、被害のことを言っていたのだ。その直後(2011年3月11日)、日本で未曽有の東日本大震災が勃発したのだった。カルモ教の外壁はひとごとではありえない。サンタ・ジュスタのエレベ-タ-で下におりてきた。(19:33)
11.ロシオ広場に歩く。そこを19:40にとうりすぎ、19:45~53,パン屋さんでパンデロ-(カステラの原型)を買ってみる。
12. 19:53、ファドを聞くべく予約してあったファド店(カ-ザ・ド・ファド)へむかうべく、TAXIを拾う。 20:03~22:30,「CLUBE DE FADO」にはいる。先ほどのサンジョルジュ城からおりてきた一角(アルファマ)にあり、所在地は、Rua Sao。Joao da Praca 86-94、電話は21-888-26-94。 混んでいた。足の踏み場もないほどテ-ブルが接近し、店内照明も暗い。人々はまあ普通におしゃべりしているがト-ンはひくく、騒がしいかんじはなかった。 21:00ころから演奏がはじまった。演奏者は二人(?)で、ギタ-ラ、ヴィオラと呼ばれる。歌手(ファデスタ)は、はじめは男性が続いたがそのうち女性歌手も登場。ピンとくる歌はあまりなかったが、メロデイ-を知らないためだったからだ。以前、ブラジルのサンバにはまっていたとき、ポルトガルには「ファド」というのがあるときいて、どんな曲か期待して何年もたったが、「サウダ-ジ」というのが、キ-ワ-ドである。この旅行で買ったファドの曲はつぎのとうり。(                     )

13.23:10、ホテルに帰着した。これでこんどの旅行も終了だ。なごり惜しく、リスボン最後の行動として、ホテル前のstreet furniture(路上の電飾型広告)の写真を鳥に行く。
  
           【 リスボン最後の写真 】
 若いころ、自分の住んでいたところをリスボン、と暗号でよんでいたことがある。

第7日目  (2014年1月8日、水曜)
朝、4:55,ホテル発。
リスボン空港7:30 → ロンドン・ヒ-スロ-空港12:40 →  TOKYO/NARITA着  1月9日(木)9:25着。