2011年モロッコ

2011 モロッコ屋外広告物視察現地時間
2011年1月3日(月)~1月10日(月)

アフリカ大陸で唯一、地中海と大西洋に面する国。それはどこか?答えはモロッコである。      

 そのモロッコではどのような屋外広告物が展開されているか知りたいと思い、2011年正月、その視察を行なった。  コースは、カサブランカ→首都ラバト→古都メクネス→古都フェズ→モアイアン・アトラスとオート・アトラス山脈のかなた(ミデルト、エルフード、カスバ街道、ワルザザード)→古都マラケシュ→大西洋側(アルジャディーダ、ワウリディア、カサブランカ)。これはパック旅行に多いコ-スであるが、事実、パック旅行に参加し、移動手段はバス、および一部、現地友人の運転する官庁ナンバ-の乗用車であった。 まず、(1)コース順に出合った広告物を列挙し、(2)その後総論でテーマ別に整理することにする。

1-1(1月3日)                                           カサブランカ市内は、ストリート・ファーニチャー、バス・シェルタ-、壁面、屋上に広告物が大量に展開する。

 

ラバトにむかう郊外に出ると、アメリカ型ブルティン(大型自立サイン)が現れる。

 

次の首都ラバトは、モロッコが1912年よりフランスの保護国となって以来の首都で、王宮周辺に広告物は見かけなかった。自立型看板で、板面サイズたて2400×よこ2900位、立上り2500位、全高さ5000㎜くらい(夜間は上から外照)するタイプがよく目についた。印象では、ストリートファニチュアよりも大きく、少々ずんぐり型の独立看板である。これの呼称があると思うが分からない。

 

また、世界各地で路面電車(トリム)が復活傾向にあるが、ここラバトでも新設工事が行われており、その路線沿い(工事中)に長大な囲み塀広告が展開している。

 

 ラバトを出発し東に向かう高速道路に入ると、アメリカによくある大型ブルティンが列を作って現れる。

なお、モロッコの高速道路建設は現国王が力をいれているそうで、そのまえのハッサン2世は水力発電開発に力をいれダムを沢山つくったという。途中のメクネスSA(サービスエリア)にも立派なブルティンがある。

 

 古都メクネス市では8階建てビル壁面の5階から上の部分に、巾(はば)10mほどの壁面広告をいくつか見る。

 

 屋上陸(おか)屋根の自立広告もある。立てながのストリート・ファニチャーも見る(呼称不明)。但し、旧市街ではさすがに大きな広告物はなく、店舗の入り口上や横の小型の自家看板しか見当たらない。

メクネスからは北に約30Kmの、モロッコ最初のイスラム王朝の首都(ムーレイ・イドリス)と、

 

古代ローマ都市遺跡(ヴォリビリス)を通り、古都フェズに向かったが、目立った広告物はなし。宿泊地はフェズであった。

1- 2 (1月4日)                                         この日は、終日古都フェズに滞在し、王宮~メラー(旧ユダヤ人街)~旧市街~北展望台、と回ったが、ブルテイン・タイプはなかった。総体的に広告物は少なく、旧市街のせまく細い雑踏の通路で、建物から突出しの店頭広告が印象に残る。

 

 夕方、ホテル(ZALAGH PARC PALACE)前に、昨日ラバトのところで書いたタイプの自立看板が立っていたので、じっくり見学に行った。

 

これの所有社は、Societe d'Affichange Urbain(都市掲示公社とでも訳せる)で、この媒体の商品名は、「Smarty Pub」(フランス語でスマ-テイ・ピュブ、スマ-テイ広告)である。

 

このタイプはいくつか見けた。 この日はフェズに連泊した。 

2- 1-3(1月5日)    

 今日はフェズを8:35に発ち、モワイアン・アトラス山脈越えにかかる。フェズの新市街を通って行ったが、ガソリンスタンドのファサ-ドや店舗看板は世界どこにでもある形態であった。

 

1929年、フランスが開発したというフランス風のリゾート地、リフレンを過ぎ、

 

11:30、雪が積もるザード峠(標高2,178m)でモワイアン・アトラスを越え、徐々に乾燥地帯に入る。

  

 左の赤茶けた山の斜面に白の石灰石で築かれた巨大なアラビア文字が現れる。

 

 今まで通ってきた方向をふりかえると、ようやく看板らしい自立看板が砂れきの乾燥地の中に立つ。広告は書かれておらず空き看板であった。サイズ、タテ2400×ヨコ2700位、全高さ4000位の鉄骨・トタン看板だった。足は細い。鉄骨75×75位でこれで大丈夫?という細さであったが、大丈夫そうだ。

 

 次に通過したミデルト(Midelt)の町の、町の意味は大西洋側と砂漠側の「中間点」という意味だそうだ。賑わっている。例の、「Smarty Pub」(スマ-テイ・ピュブ)も何本か見える。女性歌手のポスタ-が貼られている。

 

オフセット印刷物かインクジェット出力かどうかまではわからないが、歌手の顔はモロッコのベルベル系の美人だった。 町を出たところで幹線道路から少し左手に登ったレストランで昼飯であったが、入口右壁のレストラン名(「HOTEL KASBAH ASMAA」)の文字はカットボ-ドで表面は金色であった。

 13:50、走りを再開すると10分もしないうちに、また、白石灰石(?)で築かれたアラビア文字が左手の山の斜面に現れる。「アラウィ朝に栄光あれ」の意味だそうである(翻訳家・神尾賢二君による)。

 

長さ300mもあろうか。 この先にエル・ラシデイアという町があるが、その周辺が現モロッコ王朝(アラウイ朝意)の揺籃の地である。そのためであろう。このように斜面に石をもって文字を書く例はみたことがない。京都の大文字山の文字も山の木を切り取った地肌の文字であり、石の文字ではない。

 やがて、砂漠に至るズイズ川(Ziz)が右手にあらわれそれに沿って下っていく。 左手に湖が出現。これが、昨日述べたハッサン2世による水力発電のダム湖のひとつである。現モロッコ王朝は、国の基礎基盤形成に注力し国民を大事にする。そのためこの旅行のあと起こった「アラブの春」(2011年1月~)の混乱のなかでも国民は王政打倒まではいかなっかた。(監視体制も強力ではあるが。)そんな想いで、ダム湖をながめた。

 ダム湖の先がすぐエル・ラシデイアのまちで、乾燥地帯であるのに、なぜか地中海性気候をおもわせる。町を出たところでZiz川を、右岸から左岸にわたる。この町も瀟洒な印象であった。看板はあったとしても店舗の上の平看板である。Ziz川はこの先我々に沿って進むが、やがて砂漠に消えるのである。その生命力を示す景観があらわれる。Ziz川が赤茶けた広大な乾燥地をけずり渓谷を形成し、その渓谷だけに緑のヤシが繁り、灌漑を可能とさせ、大きな集落を形成するのである。砂漠に消える前のつかの間のご奉公である。

 17:35、エルフードの町に入った。なんと、化石見物をするという。アンモナイトである。なぜこんなところで? そう思ったが、アトラス山脈および北アフリカは太古の昔、海中にあった。それが隆起し、褶曲したりして今日の地形がある。その建物は鉄筋コンクリ-ト製であろう。赤茶色の壁面に「Manar Marbre」(大理石工場)の黒ベタ白文字の平看板が取り付けてある。アンモナイトの化石は大きく立派であった。エルフ-ドで宿泊した。

 

1-4(1月6日)

 朝まだ真っ暗な中を4:50、4WD、数台に分乗し、ホテル発。砂漠に日の出を見に行く。町をはずれたところでZiz川をじゃぶじゃぶと横切り、すぐ道を左に外れ、さばく(土漠)に入る。決まった道はなく、4WD(トヨタ・ランドクル-ザ-だった)は右に左に旋回して自由自在に走る。これがピステ(未舗装の道なき道)である。この先どこかで、先ほど渡河したあのZiz川はさばくの中で消えるのだ。

 まだ暗い中、5:40、砂漠サハラ砂漠の一部、メルズーガ(Merzouga)のシェビ大砂丘(L'Erg Chebbi)に着く。ラクダに乗って砂漠の日の出を見るのである。日の出はとくに美しいというほどでもなく、どうということはなかった。それよりラクダの背中に乗って見る連綿と地平線まで続く砂のうねりに魅入った。このはるかさき、南のマリ共和国のツンブクトウと交易をしてモロッコは栄えたのだ。ツンブクトウまでラクダで(     )日。そちらに旅立ちたい誘惑を感じた。

 日が明けた砂漠の帰り、右の山肌にまた白い石で築かれた文字が現れた。「LA CARRIERE DES FOSSILS」と書かれている。

 

石で積み上げたケルンや、宿泊施設(「KASBAH SAID」)や化石博物館(「」)の素朴な自立看板を巻きながら帰る。

 

 ホテルにもどり荷物をバスに積み、10:00、エルフ-ドを出発する。

 

今日はオートアトラス山脈のこちら側、南ろくを西南に沿って進み、約400Km先のワルザザードまで行く。

 30分くらい行った所にある地下灌漑水路(ヘッタラ-ト。イランの方ではカナ-ト)の脇に木骨の素朴なペンキ描きの看板(「Place of relaxation at the beduin tent、LES KHETTARA」)があった。モロッコにもベドイン人がいるようだ。

 

 ベルベル人の村(BA Touroug、Mellab)を通過し、11:30、交通の要衝Tinejaadで日本語ガイドブック(カラ-)と音楽CDを買う。周辺はずっと乾燥地帯でかって走ったアメリカの土漠地帯に気候も自然景観もそっくりだ。異なるのは建物、人、モスクだ。 看板は分岐点をつげる自立の交通標識くらいのものだ。

 12:30、街道筋のホテル兼レストランでアルコ-ルを買う。今夜のホテル(マラケシュ)にアルコ-ルはないため。

 12:40、Tinerhirで街道を右に外れ、15km奥のトドラ渓谷は最狭で巾20m。両脇は高さ200mの屹立する奇岩で欧州の若いロック・クライマ-たちがへばりついている。広告は奥に2~3軒あるホテル壁面の自家看板だけだ。この渓谷の底辺は往復ともヤシの木がしげる人間の生息地である。                  本線にもどり先へ進むが、思いのほか人口集落地が整然と続いた。ここからさきはカスバ街道とよばれるくらい立派な大きなカスバ(支配者。権力者の大邸宅)が続く。エルケラア・ムグナという町の市役所もカスバ風である。このあたりの産業は、薔薇栽培、短剣製造、観光である。薔薇waterを売る売店には各国語にまじって「バラの製品」という日本語が店頭に大書されている。

 

 16:35、左の、電波塔が何本か立つ丘の大斜面にまたも石で築かれたアラビア語。「王さま万歳」(翻訳家神尾賢二くん訳)

 17:40、ベンヌモロ-のカスバ(Kasbah Ait ben Moro)で車をおりてながめる。ヨ-ロッパ風でもある。このあたりのロ-ドサインは、タテ600×ヨコ900位で高さ2300位のものがまばらに現れるだけであった。  宿泊地は、ワルザザ-ト(Ouarzazate)で18:30到着。

1-5 (1月7日)

 きょうはオ-ト・アトラス山脈をこえ、マラケシュへぬける日である。 

 朝、ホテルをぬけだし街道に散歩に出るとすぐ1~2分先の左に大きなカスバがある。有名なタウリルトのカスバ(kasbah de Taourirt)である。向かい側からながめながら現地の人に話しかけると「中にはシナゴ-グ(ユダヤ教教会)もある」とのこと。

 えっ?なんでこの中に?と思う。しばらく疑問が頭をはなれないので、しばらくしてガイドのモハ氏にたずねてみる。「カスバの中にシナゴ-グがあるとは、ベルベル人とユダヤ人は仲がよいのか?」→「YES」。 

「なぜ?」→「イスラム教がくる以前はベルベル人はユダヤ教を宗教としていた。それ以来、仲がよい。」

「不思議だ。ユダヤとイスラムは対立しているのではないか?」→「それは、エジプトやシリヤなど東のほうだけである。」 私には発見だった。 

 周辺に広告物といえば、脇のレストランの壁の店名看板や、絨毯組合の建物右の小型自立看板くらいのものだったが、8:45、マラケシュに向けてバスが出発し、市街地に入っていくと、都市景観になってくる。この町、ワルザザ-トはサハラ砂漠の最前線基地として、1920年、フランス軍により建設。現在はモロッコ軍が駐屯し広大な軍用地があるそうだが、道や家並はフランス風だ。「Hertz」などレンタカ-もある。

 またこの町はハリウッド映画が沢山撮られたところで、街中の広場に、球体の上に映画のフィルムケ-スをかたどった記念碑や、

 

町から3kmほど行った所に映画スタジオ(アトラス・コ-ポレイション・スタジオ、現在オスカ-・ホテル、「アラビアのロレンス」撮影地)がある。スタジオのファサ-ドの造形は古代エジプトのファラオ-であった。

 

 10分くらい走ると、右にまた映画の「CLA・スタジオ」があり、

 

左の丘の上にまた大きなカスバ(テイフルトウトのカスバ、Kasbah de Tiffouultouto)がある。地元のおじさんんがイグアナを売っている。このあたりから南方にかけてコブラ(蛇)がいる。また冬はいないが夏、砂漠にはサソリがうじゃうじゃいるとの、ガイドのモハさんの話だった。

 10:15~13:15、要塞化された丘陵の村、世界遺産のアイト・ベン・ハッドウ-(Ait Benhaddou)に滞在する。ここはカスバと見まちがえるが、カスバではない。カスバはあくまで司令官や領主が住んだ邸宅としての城塞であるのに対し、こちらは分類上はクサ-ルといい、複数の家族が集合して住む村の城塞である。「クサ-ル」という銘柄の赤ワインがモロッコにはあり、この旅でたびたび飲んだ。村の民家の一軒にも入らせてもらう。外気を遮断して過ごしやすさを感じた。住んでいる人々はベルベル人という。

「ム-ア人とはベルベル人のことですか?」とガイドのモハさんにたずねる。そうだ、と。

 アイト・ベン・ハッドウ-の丘陵のてっぺんに登ると、乾燥した荒々しい風景を一望する。2010年に訪れたイエ-メンの景色に瓜二つである。ここは世界遺産であるが、土産物店がおおく、すこし減らさないと、世界遺産の認定を取り消される危機にあるという。 

 丘陵を降りて摂った昼食のレストラン「L'OASIS D'OR」の入口上部の看板は、FF(フレキシブル・フェ-ス)シ-トににインクジェット・プリントした規格品枠の内照サインである(750×3000位)。

 

 13:15、アイト・ベン・ハッドウ-を発つ。 本線に戻りそれと合流する交差点ロ-タリ-に、「JICA」の両面自立看板(1000×1200位、高さ2000位)が立っていた。

 

 ついでながら、アイト・ベンハッドウ-への往復途中で、アトラス山脈が褶曲山脈であることを証明する大胆強烈な褶曲模様を見ることができた。

 

 14:50、オ-トアトラス山脈を越えるテイシュカ峠(2260m、COL DU TICHKA)をとうる。ここから一気に急坂を蛇行してくだる。広告物も集落もない。

 15:20~16:00、アルガン・オイルの工場兼土産品店に寄る。この店にノ-トを置き忘れ、店にれんらくしてもらい、みせの人が車で途中、届けてくれた。感謝して日本の物品をお礼にわたした。        長い低山帯を通過し、ようやく18:40、マラケシュに着く。マラケシュは大都会で車も照明も多く、例の、外照自立看板(smarty pub、スマ-テイ・ピュブ)がまぶしい。

 

 21:00、ベルベルとアラブ文化のファンタジアショ-をみに行った。

1-6(1月8日)

本日 は、マラケシュ滞在日である。

 マラケシュこそモロッコの本格王朝の首都であった。最初の首都こそ、ム-レイ・イドリスやフェズにゆずったが、ベルベル人最初の王朝の首都は、マラケシュである。

1056~1147年のムラ-ビト朝(ベルベル語。アラビア語ではアルモラビト朝)。

1030~1269年のムワヒッド朝(ベルベル語。アラビア語ではアルモハッド朝)。 

マリ-ン朝(1258~1465年、首都フェズ)をはさみ、

1549~1659年のサア-ド朝の首都もマラケシュである。 

現在のマラケシュも、ベルベル文化の香りが高く濃厚であった。人口の6割がベルベル人で、この町は銀細工でも有名。まわったコ-スは次のとうり。 

9:00~9:30、クトウビアの塔(ミナレットの高さ77m、11世紀ムワッヒド朝創始者アブド・アル・ム-ミン着工)

9:40~10:30、バヒア宮殿(この宮殿の謂われは聞き逃す。ガイドブックの記述よくない) 

ユダヤ人街(メラ-)の中を経て、 

10:55~11:20、16世紀サア-ド朝の墳墓群(歴代スルタンの廟)、 

12:20、カスバ寺院前を通り、アグノウ門より外へ出る。 

 ホテルでシェスタのあと、16:40~18:45、ジャマ・エル・フナ広場、とまわったが、大都会だけあって都市型広告媒体はひととうり、目に飛び込んでくる。 

 寿司店(「Yama Sushi」)のファサ-ド(富士山と松の絵)、マンション販売現場のインクジェット、歩道のキオスク・スタンドとその囲い広告、屋上の(置き基礎?)看板、三面変換ボ-ド、ストリ-ト・ファニチャ-、スマ-テイ・ピュブ、バナ-広告等々、ヨ-ロッパ圏と変わらない。

 

 いかにもここはイスラム圏だと感じさせる「ファテイマの手」は民家ドアノックのみならず、商店の店頭上部ファサ-ドの装飾としても使用されている。

もう一つ、日本ではみかけないのが、道路を横断して吊り下げられるLEDの装飾である。夜間は光る。道路のずっと向こうまで長列にならぶ。模様はアラビアもようであり、ちょっと目には何の装飾か、私には解読できなかった。 (この旅のあと、この方法は各地で見ることになった。スペイン、バスク、ポルトガル等で。)

 

 LED照明ではもうひとつ感嘆したものがある。広告物としてではないが、ヤシの木をかたどったLED照明が、ジャマ・エル・フナ広場から「クト-ビアの塔」へぬける通りに長列に展開していた。周囲の商店の照明は暗いため、その輝度のある青白い光は、冬の澄んだ夕空にリゾ-ト地としてのマラケシュを演出しているようであった。 

1-7(1月9日)

 本日はマラケシュからカサブランカまで列車移動し、そのあと大西洋岸を下るのである。 

 9:00、国鉄マラケシュ駅発Fes行き特急、1等コンパ-トメント車であった。マラケシュ駅に駅広告媒体は1種類しかなく、それはプラットホ-ム(レ-ル・エンド)にありその形態は自立型で、2面ワンセットのスクロ-ルサイン型で、別々に2台あった。


↓マラケシュ駅

  

列車に乗ると車内広告媒体は見かけない。

車窓から見かける屋外の広告物も非常にすくなく、建物壁面の会社名をちらほら(ROCA、Sofadex Puratos )、 道路沿いの自立空き看板(h2700×w3600位・白塗り)を1基、

 途中駅でスクロ-ルサインを2台ほど(広告主は清涼飲料水)見ただけである。 

 12:10、カサブランカで下車(Gare de Casa Voyageurs)、3時間10分の旅であった。駅前にさっそくスマ-テイ・ピュブを見る(広告主はケイタイ電話会社など)。

 

 

 今夜泊るホテルから、50mほど離れた昼食のレストランにむかうとき、歩道のア-ケ-ドにつるした看板を、脚立を立てて取り替えている看板業者をみた。

 

 13:45、バスで高速道路を南に90kmの、アル・ジャデイ-ダ(EL JADIDA)に向かう。アメリカ型のブルテインがある。やがて右に大西洋の大海原を見るころビ-チリゾ-ト地のアル・ジャデイ-ダに15:15に到着した。

 

 風光明媚だが、見るべき媒体としての看板は見かけない。あるいは風光明媚ゆえにか?1502~1769年までここは、ポルトガルの拠点であった。リスボン大地震(1755)による国力低下のためポルトガルは撤退し、いまはその遺跡「ポルトガル都市」(旧市街)が残る。

 16:30、ここからもっと見るべき広告物はないか、またもっと未知の大西洋は見たくないのか、と思い、パック旅行団から別行動許可をもらい、ラバト在住の旧友・神尾賢二君の運転する乗用車(公用車)で南下する。途中、塩田とか工場とかモスクは見えるが、広告物はない。  

 夕闇せまるなか、17:50、約100kmさきのワッリデイア(Oualidia)に到着。砂浜の海岸にでて大西洋の荒波とその轟音と強風の晒される。ここもビ-チリゾ-ト地で国王ムハメッド5世の夏の宮殿があるという。だが町は暗く、カフェにあつまる男たちは(アルコ-ルでなく)コ-ヒ-でテレビのサッカ-観戦をしている。印象に残る広告物は無かった。 

 19:00ころワッリデイアを去り、20:15、エルジャデイ-ダにもどりポルトガル・シテイまえの魚レストラン(「SNACK AL BAHRI」)で食事を摂り、21:50、エルジャデイ-ダを発つ。  

 23:20カサブランカのホテルにもどる。夜の為もあり、広告物鑑賞の収穫は皆無であった。そのかわりスリルがあり痛快だったのは、ワッリデイアからの暗闇の中の帰り道、道路工事と検問に1回ずつぶつかった際、こちらは公用車だったため、前の車をおしのけて通過させてくれたこと。またカサブランカにはいって道が良く分からずたまたま白バイのポリスに尋ねると、なんとホテル(「Hotel Golden Tulip Farah」)まで白バイ2台がサイレンならして先導してくれたことである。モロッコのある一面、すなわち、王権政治の強権性を垣間見た感じがした。 

1-8(1月10日、月曜) 

 きょうは最終日で、15:15にカサブランカ空港から去る日である。

 残り少ない時間で出来るだけ多く広告物を見たい。 朝の自由時間にまず、カサブランカ港に行ってみる。港近くの沿道で、ブル-色のさわやかな色調の桃太郎型のぼり旗が続く。

以前、アラブ首長国連棒ドバイで見たのと同じだった。港のゲ-トは検問になっていて中へ入れない。大型の世界周遊の観光船が入港していた。港のゲ-トの左に漁業市場がある。港と市街はくっついている。 

 某有名ホテルの主要道路側壁面の8階~9階にかけて、大型の、あと付けの、突出し看板があった。相当大きいが、アンカ-ボルトなど大丈夫だろうかと心配になった看板だった。 

 

 9:30、ホテル発~9:40ハッサン2世モスク~11:50旧市街~12:25国連広場へ向かう。 

 道中、ハッサン2世モスクは巨大なモスクで自分の経験では最大だった(シリアのダマスクスのモスクはいつか見たい)。ミナレットの高さ200m。  

 国連広場は、旧市街の時計台の反対側にあったが、ここから主要道路が放射状にのびる市の中心であることから、周辺にはさすがに大型の屋上広告、大型の壁面広告、ストリ-ト・ファニチャ-、が多い。

 

 少し南のムハンマド5世広場にも、れいのスマ-テイ・ピュブがある。

 

 時間が無く残念である。モロッコを去らねばならなかった。

 空港通りのブルティンが見納めとなった。




2-1形態別

3.媒体別